"Groundhog Day" 「恋はデジャ・ブ」 ― 繰り返す同じ一日の中に何を見出すか


1993年のアメリカ映画 "Groundhog Day" 邦題「恋はデジャ・ブ」を観ました。
"Souce Code"町山さんが紹介 する中で似たメッセージを持つ映画としてこの映画に触れていました。また、ムラヤマセッコツボンバーさんもお勧めしてくださったので "Groundhog Day" 「恋はデジャ・ブ」を観ることにしました。


「恋はデジャ・ブ」という邦題をみるとチープなラブロマンス映画を想像してしまいますが、中身は全然違いました。"Souce Code" のように感情に訴える映画で、観て良かったと素直に思える物語でした。一応、分類はラブ・コメディということになるのだと思います。


groundhog というのは ウッドチャック のことで、大きなネズミのようなげっ歯類の動物です。ウッドチャックは冬の間は穴の中に潜って冬眠します。アメリカには穴から出てくるウッドチャックで春の訪れを占うというお祭りが2月2日にあり、このお祭りの名前が映画のタイトルにもなっている "Groundhog Day" です。


ビル・マーレイ演じる主人公のフィルは自分勝手で傲慢な「いやなやつ」。


お天気キャスターをしているフィルは2月2日の Groundhog Day を取材するため、カメラマンと女性プロデューサーの3人で、お祭りの行われるパンクスタウニーという田舎町に滞在します。取材を終えたフィルたちは帰ろうと車を走らせるも吹雪で足止めをくらい、町に残ることになります。帰ることをあきらめたフィルはホテルで眠りにつくのですが、翌朝6時、セットしていたラジオで目が覚めると昨日と同じ曲、同じセリフが流れます。外を見ても昨日と同じ。2月2日がまた始まります。


ここからフィルは2月2日を何度も何度も繰り返すことになりまります。
どんなことをしても朝6時になると2月2日に戻る日々を過ごす中でフィルはこうつぶやきます。


「一つの場所から出られず、毎日が同じ事の繰り返しならどうする?」


フィルは欲望の限りやりたいことを実行していきます。そして一緒に取材にきていた女性プロデューサーのリタを好きになったことに気づいたフィルは、何をしてもリセットされることを利用して彼女の好き嫌いを調べ尽くし、彼女を落とそうと試みます。失敗したら次の2月2日ではその点を修正して、どんどんリタ好みの男に近づけていきます。しかし元来の自分勝手さ・傲慢さは変わっておらず、フィルはリタに言われてしまいます。


「あなたが愛してるのは自分だけ」


それからフィルはリタにフラれ続けます。いくら繰り返してもリタに振り向いてもらえない。だんだんと自暴自棄になっていくフィルは、取材の映像を撮っているカメラに向かってついに「キレて」しまいます。


「天気のことならこのフィルが答えてやろう。冬は終わらない。寒さは続く。灰色の空。死ぬまで――この長い冬が続く」


耐えられなくなったフィルは、最後の手段、死を選びます。繰り返す日々に自ら終止符を打とうとしました。祭りの主役ウッドチャックを誘拐して車で逃走、そのまま崖から飛び降ります。落ちた車は大爆発。ところが、目を覚ますとまた2月2日の朝6時。フィルは幾度も自殺を試みます。何度死んでも、死に方を変えても、死ぬことができません。




何をしても明日にならない。繰り返す2月2日。死ぬこともできない。自分のことを考えるのにも疲れ果て、絶望していたフィルがある日を境に変わっていく。


そういう物語です。




フィルは一体どうすれば同じ一日から抜け出せるのでしょうか。


僕はその答えの一つは「自分が変わっていくこと」だと思います。フィルがピアノを習い始めて、毎日練習を続けるというのが印象的でした。フィルは自分を変えていくことで2月2日を変えようとしました。


そしてもう一つは「自分以外のことを考える」こと。自分のことを考えるのに疲れたフィルは他人のことを考えるようになります。これまでバカにしていたカメラマンのことを気遣い、彼のことをもっと知ろうとしたり、パンクスタウニーという田舎町に住む人たちのことを助けたり、自分のためではなく他人のために行動するようになりました。


この2つが2月2日から抜け出すための鍵ではないかと思いました。




そして町山さんはこの映画にもっと大きなメッセージが込められていることを教えてくれます。この映画のヒントになっているのがニーチェだということが、監督と脚本家の話からわかったそうです。 町山さんの「アメリカ特電」という配信版ラジオで "Groundhog Day" を紹介している回から、長くなりますが引用します。
(「町山智浩アメリカ特電」第73回 2009/02/12 http://enterjam.com/?eid=133
(放送の音声ファイルへの直リンクはこちら → http://enterjam.net/podcast/tokuden/tokuden073.mp3



ニーチェが書いたですね『喜ばしき知識』っていう本があって、その中でですね、「永遠回帰」もしくは「永劫回帰」っていう言葉をニーチェが出してきてるんですね。


それは人生がもう一度完全に同じように繰り返されるとしたら、それはどうだろう?と。同じ、全く同じ何の変わり映えのない日が何度も繰り返されたとしたらどうだろう?と。それは拷問かもしれないと。でもそれを喜びをもって生きることができるならば、それは本当に立派な人間のはずだ、ってなことをいうんですねぇ。


で、この「永遠回帰」っていうのは一体なんでこんなことをニーチェが言ったのかっていうことは非常に謎に包まれててですね、読んでもよくわかりにくいんですね。どういう意味なんだろう、と。なぜおんなじことを、おんなじ日を、毎日を何度も繰り返さなきゃいけないのかと。で、どうしてそこに喜びを見出さなきゃいけないのかって、わかりにくいんですが、これは実は、彼がずっと反発してたキリスト教的な概念へのですね、アンチテーゼとして出してるんですね。で、それがわからないと何をいってるかわからないわけですけども。


実はキリスト教ってのは、ユダヤ教イスラム教全部同じなんですけども、そういった一神教、全部同じ神様なんですけれどもね。要するに昔立派な社会があった、立派な世界があった、要するに神の国があった、この世界は神が創ったと、でもだんだんダメになってしまったと、堕落して、人間がね。でもいつか未来にはまた神の国が実現されるんだという考え方なんですね、基本的に。いつか、神の、天国が実現されるんだと、ないしは死んで天国にいけるんだ、っていうような、「未来にいいことがある」っていう考え方なんですよ。で、その現在っていうのは未来のための修練の場だ、という考え方なんですね、これは。キリスト教的考え方なんですね、まぁユダヤ教的考え方、イスラム教的考え方共通してるわけですけども。


ところが、それっていうのはマルクス主義にも影響を与えてて、マルクスとか、マルクスの原点であったヘーゲルっていう哲学者もそうだし、まぁ実存主義も全てそうなんですけども。世の中っていうのはどんどん良くなっていくものなんだと、人間っていうのはどんどん成長していくもので、社会ってのはどんどん先に進んでいくんだ、未来に向かってどんどん進化していくもんなんだ、っていう考え方なんですね。これは要するに神を否定したマルクスもその考え方ではキリスト教的な考え方、ユダヤ教的な考え方に、まぁ、とらわれていたわけですけども。


ニーチェはそれを否定するんですよ。


未来にいいことがある、と。そのために現在があるっていう考え方は、それはダメだ、と。それはあまりにも現在をないがしろにしてて。まぁ、アーミッシュなんかがそうですけども、禁欲、禁欲禁欲禁欲で生きるんですねぇ、欲望を抑えつけると。で、そうすると将来天国にいける、神の国にいける、将来、要するにキリスト教原理主義なんかも、将来最後の審判が下ったとき、我々だけは神の国に入れると、神を信じないで悪いことしてた人たちはみんな地獄にいくんだっていう考え方なんですね。


つまりこの考え方は現在っていうものをないがしろにした考え方なんですね。現在やりたいことをやらないで我慢することによって、死んだとき、もしくは未来、天国にいけるという考え方で、これはダメだろうとニーチェは言うわけですねぇ。そうじゃなくて、現在、一生懸命生きるべきだなんだと、現在を楽しむべきなんだと。なぜならば現在しかないからだ、と。ホントは未来なんていうものはないんだよと、そういう嘘をついてだますなよ、ということですねぇ。


現在認識できるのは、我々にとって認識できるのはやっぱり現在しかないんだと。現在を力いっぱい楽しんで、力いっぱい生きようじゃないかということを言いたかったんですね。つまりキリスト教に対する反発なんですけども。


それで永遠にこの一日が繰り返されるとしてもそれを楽しむ、と。それを思いっきり生きるんだよ、という考え方をニーチェが出してきて、それが「永遠回帰」なんです。で、 "Groundhog Day" っていうのはそれを言ってるんですねぇ。これはすごい映画なんですね。だからアメリカではそれが認識されているわけなんですが。


あと、「シジフォスの神話」っていうカミュが書いてる哲学の短いエッセイがあるんですけども。これもまぁ似たような話で、そのシジフォスっていうですね、男がですね、まぁギリシャ神話なんですけれども、永遠の刑罰を受けるんですね。それは巨大な石の塊をですね、どんどん坂の上に押していくという仕事をやれといわれるんですね、一生、永遠に。で、どんどん石を山のてっぺんに押してくと山のてっぺんで石はまた下に転がっていってまた下まで取りに行って、押し上げなきゃならないと、それが永遠に続くと。なんにも結果は出ない、と。もうただ同じことが延々と続くだけだと。で、これは拷問なんだと、いうことなんですね。


で、これ全くおんなじですね、 "Groundhog Day" の拷問とおんなじなんですけども、このときカミュが同じことを言っててですね。でも、その無駄な、石を持ち上げるっていう何の見返りもない行為に喜びを見出すのが人間なんだ、と言ってるんですねぇ。そこに積極的に喜びを見出していくのが人間っていうものなんだよ、未来なんかなくても、将来天国に行けるっていう見返りがなくても、その日々の生きるってことだけを実は楽しむことができるはずなんじゃないか、っていうふうにいってるんですねぇ。そしたらもういつ死んでもいいじゃないか、ってことですね、今精一杯生きてるから、と。


(中略)


今、その場で全力を尽くせ、ってことなんですね。そこで会った人は要するにうっとうしいなと思うかもしれないし、まぁ、あとで会うかもしれないし、あとで一生会わないかもしれない、だからもう関係ないと思うんじゃなくて、会った人会った人、一人ひとりを大事に思って一期一会で愛せ、っていうことなんですね。で、最後ビル・マーレイはそれができる人になるんですよ。と、いう映画なんですね。


(「町山智浩アメリカ特電」第73回、34分頃より引用)


この町山さんの話を聞いてからもう一度 "Groundhog Day" を観て、この映画が伝えんとしてることがよりいっそう感じ取れました。とても、本当に、良かったです。僕は映画初心者で観た本数は非常に少ないのですが、"Groundhog Day" は自信を持っておすすめできます。観た人は町山さんの解説を聞くと、映画の良さがもっと感じられるのではないかと思います。


ビル・マーレイの演技はすばらしかったのですが、フィルに一つだけ文句があるとするなら、ウッドチャックを自殺に巻き込んだことです。あんなにかわいいウッドチャックを死なせるなんて……。でもウッドチャックはフィルの分身のような存在(ウッドチャックの名前もフィル)なので物語的には二人が一心同体であるのは不思議ではないのかもしれませんが……。ウッドチャック……


紹介してくれた町山さんとムラヤマセッコツボンバーさん、ありがとうございます。