税と売却とヒミズと元トモ

市民税を払う。

2017年の収入で決まった税金を、転職1年目に払うのは少しキツい。支払いは四期に分かれていて、今回がようやく最後だった。

 

少しでも足しにしようと思ったわけでもないのだが、ゲームソフトやCD、本を古本屋に売ってきた。紙の本が大した値段にならないのはわかっていたが、ゲームソフトが千円以上の値段で売れるとは思わなかった。中古で買って、買ったときとさほど変わらぬ値段で売れたソフトもあったんだけど、いいのかな。

 

やっぱり引っ越しはするものだ。

引っ越しのようなビッグイベントがない限り、「せいやっ」とモノを処分することはない。去年の3月に引っ越したとき、けっこうモノを処分した。

まあ「ビッグイベント」というよりも「処分しないとメッチャ大変かつ金もかかるぞ、という大義名分」が、捨てられない性分の自分が多くのモノを処分できた正確な理由だ。

それを期に、自分の中で「モノを処分する」ということへのハードルが下がっている。引っ越しのオマケみたいなもので一時的なものだと思う。間もなく引っ越してから1年が経とうとしているので、今回が最後っ屁だろう。

 

昨夜風呂から上がって布団に入ると、ふと

 「売るか」

と思いついた。思いついたが最後、売るモノの選定が完了せねば寝かせてもらえない。

 

まずはゲームソフトだ。最近、時間はあるくせにゲームをしていない。

 「タンスの肥やしだぞ」

という声が聴こえる。タンスではなく、テレビ台の収納からPS4とDSのソフトを取り出す。ドラクエ ビルダーズはもう2も出てるし、ドラクエ4・5・6も十分プレイした…売ろう。

 「もうちょい部屋を身軽にすべきだ」

という指示を受け、本棚へ向かう。

 

マンガは巻数が多くなるとかさばるので電子書籍で読むことも増えた。これを期に、少し売ってしまおう。

 

ヒミズ』を手に取った。 

ヒミズ コミック 全4巻 完結セット (ヤンマガKC )

ヒミズ コミック 全4巻 完結セット (ヤンマガKC )

 

 

躊躇する。

 「じゃあ最後にもう一度読もう」

と納得させる。

 

時計は1時を回っていた。やめておくべきだった。

 

1巻のはじめこそ笑いながら読んでいたが、読み終えて、ドンヨリ。なんかお腹のあたりが調子悪くなってる。2時過ぎてるぞ。こんな時間に何してんだオレ。

 

でも、物語後半の住田くんは、まさにこんな感じのテンションだったのではないか。まわりの人間は寝静まる中、ポツンと一人だけ起きている。テンションが一時的に深夜スペシャルエディションになっており、価値判断が先鋭化する。

 

「普通」の人間なら、多少テンションがスペシャルになったとしても、眠ることでリセットされ、翌朝には通常盤のテンションで、昨夜の自分の極端さに呆れつつ、笑いながら、そのときの思考をゴミ箱にポイできる。

 

でも住田くんは眠れなくなってしまった。

 

リセットされないまま深夜スペシャルエディションがループする。ヤクザのアンちゃんに、はっきりと「お前は病気だ」とも言われる。

 

同級生の茶沢さんたちのお陰で、ようやく眠りにつけそうに見えただけに、最後の住田くんの決断はツラかった。ズシン。

 

ヒミズ』を買ったときのことを思い出す。先に映画版『ヒミズ』を観たのだった。


【ヒミズ】予告編

 

まだ学生のときだ。友達のMくんに誘われて目黒シネマに観に行った。そのあとにバイトか何かの予定が入っていて、ラストだけ観ずに席を立ったのだが、どうしても気になって、その後、再び目黒シネマを訪れた。

 

園子温監督の作品を観たのも、主演の染谷くんや二階堂ふみを認識したのも初めてだったし、名画座デビューでもあった。

 

Mくんとは映画や本の話をたくさんした。

今はTBSラジオリスナーと言えなくはないくらい、そこそこ広めにTBSラジオを聴いている自分だが、当時は町山さんが出てる番組しか聴いていなかった。そんな自分にMくんは、宇多丸さんの批評を参考文献として教えてくれて、それがきっかけでタマフルを聴くようになり、それがジェーン・スーさんの相談は踊るや、チキさんのセッションにつながっていった。

 

そんなMくんとはすっかり疎遠になってしまい……てコレ、タマフル&アトロクの「元トモ(疎遠になってしまった友達)特集」のテンプレじゃないか。

 

いや、でも冗談じゃなく、ある時期を境にMくんとは疎遠になってしまった。酒を飲みながら、好きな本や映画やラジオについてあーだこーだ語り、こんな作品も、こんな本も、と互いに紹介し合える関係が一時的にだが成立していた。まあ、ちょっと本気でアトロクにメール送ろうかな、とも思ったくらいの元トモエピソードではある。

 

「元トモといえば、そういや『ヒメアノ~ル』も『ヒミズ』と同じ作者だったっけ…」

などと連想して(こちらは映画版しか観ていない)、余計にドンヨリした。

www.youtube.com

 

 

と、深夜スペシャルエディションで回想しながら、売る本とCDの選定を完了し、ようやく眠りにつけた。

 

ちゃんと眠れてよかった。

再出発|はてなダイアリーとnoteとブログ

はてなダイアリーが終わるということで、以前あちらで書いていた記事をこちらに移行した。といっても、こちらも結局1年間放置していた。

 

このブログを始めてから今までの1年間で5年務めた職場を退職し、住まいを移り、職も変わった。このあたりの経緯はいずれどこかのタイミングで文章化したいと考えている。

 

生活が一変したのを期にブログ以外の媒体でも文章を書き始めた。

 

note.mu 

「note」というところで、自分の専門に近いところについて書いている。noteでは「ですます」調で少し硬めの文章を書いているので、こちらのブログとのトーンの違いもあり、やや気恥ずかしい。

 

最新の記事では、iPad proを用いて物理の教材をつくることについて、iPad proを持っていない人間がアレコレ考えたことを書いている。

まあ、言ってしまえば机上の空論なのだが、どんなツールをどのように使って教材を作っているか、ということがまとまっている記事が案外ないのだ。特に理数系のものについて。なので、自分が「こんな記事がほしい」というものを目指して書いた。 

note.mu

まもなくiPad proが手元に届いてから一週間が経とうとしているので、またそのうち現状をまとめていきたい。

 

 

ブログの方でもまた記事を書いていきたいと思っている。再出発だ。

こちらはジャンク記事でもなんでも気軽に投稿できるし。それになんだかんだで、書くことで救われているので。

 

 

痛風患者が映像研に手を出したらAmazonに入れなくなった

痛風は人を結びつける。

 

気乗りはしないが参加せざるを得ない飲み会がある。
「付き合いで」とか「若手だから」とか「新しく属した集団の初の会合で」とか「メインイベント後の懇親会」とか 。

時は2017年である。(あ、2018年だった)強制参加の飲み会などというものは無いことになっている。ということは欠席というオプションも用意されている。はずなのだが、そのオプションを行使することが「なんとなく」できない、という場合がある。まあ、要は気が小さくて断れないということなのだろうとかゴニョゴニョして「なんとなく」の正体は有耶無耶にしておく。闇は深い。

 

ともかく。酒好きの自分が気乗りしない飲み会というのは、つまり、酒以外の部分に難がある飲み会のことであり、 言ってしまえば問題となるのは「誰が集まるか」である。

 

人見知りで会話ベタの自分のような酒好きにとっては、気の許せる知人が会場にいるかどうかは大きい。「新しく属した集団の初の会合」とか「メインイベント後の懇親会」のような典型的な「付き合い型飲み会」では、気軽に話せる相手がいない場合がほとんどであり、となると、ウンウンとそれらしい相槌を打ちながら、手持ち無沙汰をごまかすためにグラスを口へと運び、たまに「ホントそうっすね」とか「いやあそうなんすよね」とか「でもまあそうなっちゃいますよね」とか合いの手を間にはさみつつ、相槌・グビグビ・そうっすねのループを繰り返して、時間が過ぎるのを待つことしかできない。

 

「いや、社会人ならもっと頑張れよ」

 

という至極まっとうなツッコミは無視して話を進めるが、こうした付き合い型飲み会がこの世から無くなるまでもう少し時間が必要そうだ。21世紀のうちに無くなるだろうか、とか、ふと時間のスケールを大きくして考えてみたら、なんだか切なくなってきた。きっと無くならないんだろう。これからも日本の各地で付き合い型飲み会が、自分のような人間を苦しめ続けるのだ。

しかし、そうした辛く苦しい飲み会でも、稀に、付き合い型であることを忘れさせる一瞬があるのである。

その奇跡の瞬間は、会場内の人間が発する1つの単語がトリガーとなって訪れた。

マジックワードは「尿酸値」である。

その言葉が耳に入った瞬間、私はグラスを口へ運ぼうとする手を止め、叫んでいた。

「オレもです!」

途端に、今年度の健康診断の結果だとか、薬を飲んでるかどうかだとか、どこに発作が出るかだとか、最後に発作が出てから何か月経っただとか、やれ水を飲め、牛乳だ、などと話が爆発的に展開する。

痛風は贅沢病だとか言われるけど、結局は体質であって、自業自得だとかいうのはナンセンスなんだよね」

と、それらしい言葉で慰め合いながら、気づけば、そこに一体感ができているのである。さっきまでロボットのように、相槌・グビグビ・そうっすねを繰り返していた人間が別人のように、飲み会を楽しんでいるのである。

 

痛風は人を結びつける。

 

このときほど尿酸値が高いことに感謝したことはなかったが、冷静になってよく考えると「他人とコミュニケーションをとろう」とか「共通の話題で盛り上がろう」とか「年を取ると病気の話ばかり」(といってもまだ30代に入ったばかりなのだが)みたいなありきたりな当たり前の話に落ち着いてしまいそうなので、冷静には考えないようにして、そうなのである。痛風で救われる命もある。今年の節分では尿酸値の分だけ豆を食べようと思う。小数点を切り捨てるかどうかは医者に相談しよう。


というわけで長い前置きになったが、どうやら昨夜から痛風の発作が発症しているようだ。右足が痛い。ついでに今朝は熱も出た。残念だが(と一応つけておく)仕事は諦め、休みをもらって今日は家で寝ていた。

動けないので布団に入って、本を読んだり、Twitterを見たりしていた。まあ動けるかどうかに関わらずいつもと同じなのだが。

「そういえば」と昨日、Twitterで流れてきて面白そうだった漫画をkindleで立ち読みしている途中だったのを思い出し、早速ポチッた。

 

『映像研には手を出すな!』だ。

映像研には手を出すな! 1 (ビッグコミックス)

映像研には手を出すな! 1 (ビッグコミックス)

 

 

あっという間に1巻を読み終えて、2巻もポチって読んだ。登場人物たちが交わす会話がズバリ私の好みで「コレコレ、こういう会話!」とイチイチ悔しがりながら読み進めた。

 

映像研には手を出すな!(2) (ビッグコミックス)

映像研には手を出すな!(2) (ビッグコミックス)

 

 

1巻から主人公の浅草と金森の会話を一部抜き出してみる。

「時に金森…さんよ」
「なんです。」
「牛乳おごるからアニメ研の見学一緒に行こうぜ」
「嫌ですよ。めんどくさい。」
「そこをなんとか。音曲浴場の瓶牛乳2本追加。」
「浅草氏って連れション文化圏の人間でしたっけ?」
「一人が心細いんだよ。」
「なんでアニメ研にこだわるんです 浅草氏は。」
「そりゃ君 アニメが好きだからだよ」

 

さらに、もう一人の主人公となる水崎を見かけた2人の会話である。

「水崎ツバメですよ あれ!カリスマ読者モデルの。」
「へえ。周りにいる人って全部 水崎さんのファンなのけ?」
「そうです。全員が水崎さんに金を落としてるってことですよ。」
「金森氏は相も変わらず金好きだな」
「浅草氏 水崎さんと友達になってくださいよ。」
「無理だよ あんな社交性の塊みたいな人と付き合うのは。」
「彼女で一儲けできませんかね。なんでも彼女は財閥令嬢でもあるらしいです。」
「財閥はGHQに解体されたろ」

と、こんな感じで会話がトントントントンとつながっていく。「時に金森…さんよ」「連れション文化圏の人間」「財閥はGHQに解体されたろ」といった言葉のチョイスも、ああ私好みだ。

 

しかもこれらが女子高校生どうしの会話だということに驚く。いや驚かない。マッチしている。登場人物たちが愛おしい。

 

早く3巻が読みたい。

 

『映像研に手を出すな』はiPad miniChromeからAmazonにログインしてポチったのだが、そうこうしているうちにAmazonのページに入れなくなった。

このサイトは安全に接続できません

Amazonのアドレス)から無効な応答が送信されました。
ERR_SSL_PROTOCOL_ERROR

 とか言われてしまい、タブを再読み込みしても、タブを閉じてもう一度同じページを開こうとしても、同じメッセージが繰り返される。他のページは問題なく読み込めるが、どうやらAmazon関連のページには全て入れないようだ。

 

検索してみると、似たような症状は公式ページにも書いてあるが要領を得ず、同じような症状の人が質問サイトに質問しているが、解決している様子でもない。

 

ということで、とりあえずキャッシュとかなんやらを削除してみることにした。

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えいやっと、全部にチェックを入れて削除したら、問題なくAmazon関連のページに入れるようになったのだが、結局、どの項目が問題を解決したのかはわからずじまいだった。

 

というたったこれだけの備忘録を書こうとしたら、こんな文章になってしまったが、これもブログらしくていいのではないかと思う。以前は、「もっと面白いものじゃないと」「もっと何か自分だけの意見や分析ができていないと」と、自分の記事のハードルを自分で上げていたように思う。

 

今は、当時よりも、もう少し自由になれたような気がしている。

 

けれど、次に更新できるのはいつになるだろうか。仕事が始まればこんなペースでは書けないだろうし、晩酌をするとその後は寝るだけだし、今日だって飲んでいないのは痛風の発作が出ているからだし……

 

まあ、また書きたくなったら書こう。違うか。書けるときに書こう。書きたいことは幸いたくさんあるような気がしているし、今日みたいに何かを書こうとするとてんで関係のないことで筆が進むこともあるし。

 

またジャンクでいこう

ブログを開設したはいいものの、記事が一つもないのではどうにも恰好つかないので、こうしてキーを叩いている。

 

はてなブログ参入である。

 

以前、はてなダイアリーでブログを書いていた時期があったが、仕事を始めてから更新が遠のいた。

 

特別に忙しい仕事というわけでもないわけでもないが(つまりまあ、人並みに忙しい仕事だ)、忙しさのせいというよりはブログを書くことのハードルを自分の手で上げてしまっていたのが更新できなくなった原因の主な一つだと思う。

 

書きたいことを書くというより、書かなきゃいけないものを書く。それは書き方としては間違っていないのだろうけれど「これは書くに値するものか?」という「客観性」に囚われてブログから遠ざかった。

 

もういいだろう、と思う。

 

もうそろそろ書きたいことを書こうと思う。

 

といっても、次の更新はいつになるのか。それは自分でもわからないが、これからも駄文をアップしていきたい。

 

今日で休みも終わる。明日からまた仕事に追われる日々だ。

 

正月は飽きた。またジャンクなもので生きていこう。

キャプテン・ロジャースへと続く道

2013年のベストを10を決めなければ、と思い悩んでいるうちに2014年ももう3分の1が過ぎようとしている。

結局、去年劇場で観た映画は90本ほど。ベスト10を決めろなんてなんて無茶だ(誰もそんなこと頼んではいないのだが)。
あれはよかったこれはよかったあれもこれもと思い出すたびに順位が入れ替わる。

けれどベスト1は決まっている。これについては迷う必要がなかった。

もちろん『アイアンマン3』だ。

アイアンマンへの思いは過去に既に書いている。

 これからの「アイアンマン」の話をしよう 〔前編〕
 これからの「アイアンマン」の話をしよう 〔後編〕

けれどアイアンマンについてはいくら語っても語り尽くせない。
(そして実際に次に書くと言ってまだ書いていないことがある。アイアンマンスーツのこと。メタルヒーローシリーズとの関係についてだ)


しかし、ここでいう「語り尽くせない」というのは「語りたいことが山ほどあるために時間がいくらあっても語り終えることができない」ということではない。

「いくら語ってもまだ十分語り切っていないような気がする」「これだけの言葉では己のアイアンマン愛を表現しきれていないような気がする」という不足感、いうなれば「残アイアンマン感」のことである。


この残アイアンマン感は「好き」ということの本質に関わっているような気がしている。

『クラウドアトラス』について語った時にこう書いた。

チェックリストを埋めていって一定の条件を満たしたら「好き」になるわけじゃない。「ここがこうだから好きなんだろうか」好きになった後で好きになったそれを眺めて推測することはできる。そうやって自分の深いところに潜っていく作業は面白いし興味深いけれど、必ずしも明確な「好きな理由」が見つかるわけじゃない。というかそんなこと可能なんだろうか。

内田樹先生の言葉を借りた後でこうも書いた。

自分がなぜそれを好きなのかをうまく明文化できないのに、どうして他人にそのチェックリストを押し付けることができるのだろうか。

好きかどうかはオレが決める。どうやって決めるのかはわからん。だから正確には自分が決めているわけですらないのかもしれない。でも、少なくともそれを決めるのはお前じゃねえよ。


「好きになった」ということはわかる。僕はアイアンマンが大好きだ。その事実ははっきりと認識している。
『アイアンマン3』を劇場で観ていたときもアイアンマンスーツを身にまとったトニーの登場で涙が出るほど喜んだ。比喩ではない。本当に涙が出た。

けれど、ではなぜアイアンマンが好きなのかと問われると言葉に詰まってしまう。

好きな理由を挙げられないことで「好き」が揺らいでしまう。
なんだか自信がなくなってしまう。

「本当に好きなのかな」


だからここであえて言い切ってしまおう。

好きであることの理由をスラスラと語ることのできてしまうものなど、本当は大して好きではない。
本当に好きであるものほどうまく理由を言い表すことができない。

のではないかと最近考えている。

「なんでそんな好きなの?」という素朴な質問にうまく答えられないからこじつけた、といえばそうなのだけれど。


深く心に突き刺さる物語というのは個人の根幹に突き刺さっているのだ。
だからこそ強く人を惹きつける物語というのは非常に個人的な物語なのだろうと思う。
普遍的で一般的であるほど多くの人間に伝わるかもしれないが深くは刺さらない。
(だから物語の生産は尽きない)

そう。
その何かが個人の奥底へと達するに十分な鋭さと強度、そして個人の根幹にフィットする形状を兼ね備えているときに突き刺さるのだ。

「好きになる」というのはそういうことなのではないか。

だから好きなものを語るときには、その対象を語ると同時に自分を語ることになる。

そんなものがすっきりと語ることができてしまうほど単純であるはずがない。

ゴチャゴチャしていてドロドロしていて入り組んだ複雑な視界の悪い道なき道を歩くような、そんな感じのはずだ。


だから書く。

書くことで自分を掘り下げる。

思考とは書くことと見つけたり

と言ったのは僕だけれど、書くことが思考の最も原初的な方法であるというのは小田嶋さんに教わったことだ。


『アイアンマン3』に話を戻すと、今回、トニーの重要な助っ人が、そして今作のテーマであるのが「工作少年」であるというのはなんだか予言したような形になってしまったが、本当に胸がジーンとした。


なぜ『アイアンマン3』について書いていたのかというと、こないだ観た『キャプテン・アメリカ/ウィンターソルジャー』について語りたくて、その枕のつもりでアイアンマンの話を持ち出したのだった。
「アイアンマンといえばアベンジャーズといえばキャプテン・アメリカ」みたいな軽薄な書き出しをしようとしていたのだった。

2回観た。

1回目のあの幸せな観後感が心も体も痺れさせてしまったからだ。

キャップ……。

アベンジャーズでもそうだったが、アイアンマンも好きなのだけれど、キャプテンがいいんだ!本当に!
1作目の『キャプテン・アメリカ/ファーストアベンジャー』で既にスティーブのあのキャラにベタ惚れだった。

と、いうところまでアイアンマンの勢いで書いて、続きはまた日を改めようと思う。

『クラウド アトラス』 と 『火の鳥』 と私


日曜日。一人三本立ての一本目に選んだのはウォシャウスキー姉弟監督の『クラウド アトラス』だ。

朝一番、午前9時上映の回。3時間。エンドロールが終わり明るくなる場内。

幸せな気持ちだった。ボンヤリとした暖かい光の中に漂っているような柔らかく深いベッドに包まれながら沈んでいくような、うまく説明できないけどなんだかポカポカとしてジーンとして穏やかな気持ちでいながら頭が冴えてる、そんな感じだった。


スクリーンに入り込なきゃ。誰かに感情移入しなきゃ。余計なことは考えずに集中しろ。日常を忘れろ。

劇場で映画を観ているときに頭の中にそういった言葉が浮かぶことがある。「せっかく映画館に来ているのだから自分の状態をベストにして楽しまねば」と欲張って肩に力が入っていると、そうなる。作品との相性が合わない場合もそうなる(それがひどかったのが『レ・ミゼラブル』の時だ)。なんとか気持ちを落ち着けてフラットなつもりで臨んでもたいていの場合、序盤はどうしてもそうした状態に陥りやすい。

そんなことを考えてしまっているのだとしたら戦況は芳しくない。取り残されている証拠だ。追いつけばいい。あちらが拾ってくれればいい。それができなければもがいたままエンドロールだ。

最初のカットが流れるまでに意識せず自然に「これから私が目にするのは映画だ」というモードになっていると物語に没入しやすい。力が抜けて映画が自分の中に入ってきやすい状態。すーっとスクリーンの中に溶け込める状態。観客の意識をそうした「映画態勢」に持ちこむ装置が劇場にはたくさんある。カウンターで買うチケット。うす暗い場内。座り心地のいい座席。大きなスクリーン。コーラとポップコーン(塩味に限る)*1

映画態勢整備に最も貢献するのは本編上映前の予告編ではないかと思う。

完全な暗闇となった中、大音響とともに大きなスクリーンに映る短い映像。流れるようなカット。爆発音。壮大な風景。オーケストラ。見つめ合う男女。静寂。

予告編がウォームアップとなって本編が始まる頃には劇場に体がなじんでいる。いつのまにか座席ごと映画の入り口の前まで運ばれている。あとは自動的にドアが開くのを待つだけだ。

新宿ピカデリーでは本編上映前に予告編の他に、CMが流れる。コマーシャル。宣伝。マヨネーズ。結婚式場。ぱっぱっぷぱっぷー ……ってこれテレビの世界じゃないか!ザ・日常だよ!

「予告編だって宣伝であることに変わりはないだろ。関係ない映画のコマーシャルじゃないか」

違う。それは違う。予告編は映画なんだ。物語の断片なんだよ。非日常を切り取ったもの。でも、CMはいつもの日常を切り取ったものだろ、あんなの映画館来てまで見たくないよ。

「じゃあアレはどうなるんだよ?カメラ男がクネクネ踊ってるヤツ。あれもいちいちウザイぞ。だいたい俺達を泥棒扱いしやがって何様のつもりなんだ!?」

ああ、映画泥棒は微妙な立場なんだよね。あれは確かに物語じゃないけど、もう映画の一部みたいなもんだよ。恒例行事。いわば映画の象徴的存在、日本における天皇みたいなもの、あれ見ると映画館きたなーって感じするでしょ。外国から日本に来た人だって陛下にお会いになったら日本に来たなーって感じするよ。ほら、それにあのポップコーン食べてるお姉さんもきれいだしさ、ダウンロードお姉さんのことね。だからいいの。

「でも新しいバージョンになってあのお姉さんはもういないじゃないか」

そうなんだよー。それが僕も残念なんだ。あのお姉さんに会うために映画館に来てるようなもんだったもんね。劇場のスクリーンを通してだけ、君に会える、みたいな。

「それは違う」

うん、違うよね、僕も違う、映画観に来てる。


クラウド アトラス』もピカデリーで観た。場内が暗くなって始まったCMで嫌な気持ちになり、予告編でなんとか態勢を立て直そうとしたもののいまいち落ち着かないまま本編が始まった。それでなくとも序盤は心が乱れやすいのに。

でもそんなこと気にしなくてすんだ。すんなりスクリーンに入り込めた。

もちろん最後まで完全に集中しきっていたかというとそうではない。気が逸れてしまった瞬間も何度かあるけど、少なくとも「入り込まなきゃ」状態にはならなかった。一度も。ちょっと離れてもすぐ戻る。3時間という長さは感じなかったし、6つの時代が並行して描かれるという複雑な構成もさほど気にならなかった。

で、観終えてあの状態だ。その後、二本の映画を見るつもりだったが、あの観後感がもったいなくてやめた。パンフレットを買ってそのまま帰った。普段外を歩くときはポッドキャストを聴いているが、劇場からの帰り道は何も聴かずに歩いた。あの幸せな気分が散ってしまうのが嫌だった。*2


感動したとか泣いたとか笑ったとかそういうのとは少し違う。

うれしかった。

まさに大好きな『火の鳥』だったから。


公開前の時点で『クラウド アトラス』の紹介の中でその類似性からすでに『火の鳥』の名前は出ていた。いくつもの時代を描かれる中で同じ人物が性別や人種、そして時代を超えて物語を作っていく。輪廻や業の概念がベースにあるという。

火の鳥』は僕の思想に大きな影響を与えた作品だ。

ロビタが登場する自作のマンガ(のまねっこ)をノートに描いていた記憶があるから小学4年生の時点ではすでに読んでいたのだと思う。

ここで『火の鳥』のどこがどのように好きでどう影響を受けたかという話をしてしまうと長くなるしきっと書くのにものすごく時間がかかる。というかたぶん書けない。大好きで大切なものだから「こんなんじゃダメだ、これじゃ『火の鳥』に失礼だ、手塚先生に怒られる……」*3 と思うと手が止まる。

ピコピコ バックスペース ピコピコ バックスペース ピコピコ

…………

バックスペース


クラウド アトラス』と『火の鳥』で共通していて、重要だと僕が思うのは「繰り返し」だ。

輪廻転生や業を信じていなくてもそれらはここではさほど大したことではない。

ある時代に死んだ人間が生まれ変わって別の時代に生まれ変わる、ということが受け入れられなければ、「役割」が引き継がれていると考えればいい。どの時代にも同じような類の人間がいる。悪事をはたらく人間がいれば、世の中を良い方向へと変えようともがく人間もいる。支配もあれば差別もある。変わらない。なくならない。

そうした繰り返しの中を生き抜いてきた人類は果たして成長したのだろうか?

同じ「人間」が同じことを繰り返す。同じ「時代」が繰り返される。その流れを変えることことはできないのだろうか?

その問いが『クラウド アトラス』と『火の鳥』両方で立てられ、どちらもその問いに対する解を出そうとしている、ように感じる。

世界観というか雰囲気も似ている。特に韓国のパートとそのさらに未来のパートがわかりやすく『火の鳥』っぽい。韓国が舞台になっているパートでは科学技術が高度に発達したSF的ディストピア。その文明が崩壊した後の、原始社会と文明社会が混在している未来。

エンドロールに入った瞬間「ひのとりだぁー」と頭の中で歓声が上がった。好きです、『クラウド アトラス』。

もちろん『火の鳥』と「そっくり」というわけではない*4 しリメイクでもなんでもないので『火の鳥』を目指していたわけでもないだろうけど、ぼんやり感じた『火の鳥』イズムにぼんやり幸せ。

正直、『クラウ ドアトラス』のどこが作品として優れているのかはわからないし、たぶん探せば粗はたくさん出てくるのだと思う。韓国のパートではアジア人メイクが気になったりもしたし(みんな同じ人に見えるんだもん)、戸惑うところがなかったわけではない。

でも幸福感に浸ることができたのは確か。

チェックリストを埋めていって一定の条件を満たしたら「好き」になるわけじゃない。「ここがこうだから好きなんだろうか」 好きになった後で好きになったそれを眺めて推測することはできる。そうやって自分の深いところに潜っていく作業は面白いし興味深いけれど、必ずしも明確な「好きな理由」が見つかるわけじゃない。というかそんなこと可能なんだろうか。

「○○でないなら『好き』とはいえない。その資格はない」と他人に対して断定する人を見かける。そういうふうにきっぱり言われるとひるんでしまう。「たしかに好きな根拠も言えないしなぁ……」 内田樹先生は人間は自分の主観を断定的に語ることはできず、それが人間の弱点だと言っている。

私たちは、自分の固有の感覚というものをきちんと断定的な言葉にすることができない。決して、できないのだ。

自分がほんとうに欲しいもの、ほんとうに感じていること、ほんとうに言いたいこと。そういうものを言葉にしようと思うと、言葉は同じところをぐるぐる回り、どんどんあいまいになり、途中で主語が入れ替わり、論旨が乱れ、訳がわからなくなっちゃうものなのだよ。

「ほんとうのこと」というのは、決してきっぱり言い切ることのできないものなのだ。私たちはつねに言い過ぎるか言い足りないか、どちらかであって、決して言いたいことを過不足なく言うということは起こらない。

「ほんとうのこと」を言おうとする人間には、誰も真剣には耳を傾けてくれない。だって、何言ってるんだか分かんないんだから。ぐちゃぐちゃしてて。

だから、「ほんとうのこと」を言おうとする人間は、結局つねに「断定する人間」に心理的には負けてしまうのだ。

内田樹『期間限定の思想』角川文庫 p.52-53「断定する人を見たらバカと思え」より一部引用

自分がなぜそれを好きなのかをうまく明文化できないのに、どうして他人にそのチェックリストを押し付けることができるのだろうか。

好きかどうかはオレが決める。どうやって決めるのかはわからん。だから正確には自分が決めているわけですらないのかもしれない。でも、少なくともそれを決めるのはお前じゃねえよ。


あ、『戦火の馬』のこと書くんだった。まあ、いいか。それくらい幸せボケしていたわけです。

*1:個人の感想です。個人の感想ではあるが、映画泥棒のお姉さんが食べていたポップコーンも塩味のはずだ。そのはずだ。そうあってほしい

*2:その幸福感は帰りに寄ったスーパーでヘルシアウォーターを手にするまで続いた。ヘルシアで現実に返った。

*3:怒られるわけがない。手塚大先生がこんな小粒でヒョウタンツギ以下のダメ人間のたわ言に感情を動かされることなどないはず

*4:火の鳥』には火の鳥という不死鳥が全編を通じて統一的な存在としてあるんだけど、『クラウド アトラス』にはそういう大きな一つの存在はない

PV制作後記

 
 2012年新作映画ベスト10 PV (2012 My Favorite Movie Trailers Mashup)


2012年に観た新作映画のマイベスト10(12本)の予告編からPV(まあ別にプロモートしてるわけではないのだけれど)を作った。

いろいろあってごにょごにょして一旦はうまくいったんだけれどもまたいろいろあって結局のところ今はパソコンからしか見れないようだ。スマートフォンiPadなどの携帯タブレット端末からは見れない模様。

画質が思ったより悪い。メモリが足りないのか全編をmp4にエンコードできず、いったん未圧縮でavi形式にしてからmp4にエンコードしているのだが、その過程でなにかしら見落としているものがあって画質が落ちているのだと思う。たぶんもっと賢いやり方があるのだろうけど勉強不足でこの方法しか思いつかない。勉強する気もあまりない。少しはある。でもやらない。

あちらの方ではいろいろと切り貼りして詰め込んでうまいことまとめることをMashupというようだ。マッシュアップ。日本でも言うのかな。言うんだろうな。

もともとPV(というかマッシュアップ)を作ろうと思ったのは2012年公開の映画の予告をまとめた1本の動画を見たからだった。


 
 2012 Movie Trailer Mashup


素晴らしい。引き込まれる。スピード感があるし見ていて飽きない。BGMに合わせたグルーヴのある編集だ。

なんだか映画みたいな動画。

もちろん映画から作った動画だ。だが一つ一つのカットは全く異なる作品から切り取られた関連のないシーンである。元の作品の中で配置されたその場所においてのみ、その意味を発揮するはずのものだ。それらをただつなぎ合わせただけ。それなのにこの動画を見ると、連続するカットの流れに何か意味があるかのように感じられる。ひとつの物語のようなものとして目に映る。

何かしらの意図をもって編集しているのだとは思う。それはもちろんだ。ランダムに並べているわけではないことはわかる。

大きいのはBGMなのだと思う。

背景に流れる音楽が意味を持たせる。無関係なカットの連なりを統一する「テーマ」のようなものを与えている。

3曲のBGMが使われている。ひとつの曲の中に大きな「テーマ」があり、1曲目、2曲目、3曲目と曲の変わり目で「テーマ」が変わる。曲の移り変わりが「テーマ」の移り変わりとなる。

「テーマ」という言葉は非常にあいまいだ。あまり使いたくはない。口に出そうとすると救いようのないほど陳腐で滑稽な中身の全くない言葉になりがちだ。けれど他に思いつかない。

例えば1曲目の「テーマ」として思いつくのは「ダークネス」「始まり」。2曲目は「爆発」「疾走」。3曲目は「静寂」「神秘」「終わり」…………。

……こんな言葉、頭の中に浮かべるだけでも十分赤面モノなのに、実際にキーを叩いて文字として挿入すると恥ずかしさともどかしさと切なさでキーボードを叩き壊したくなる。小学生に戻ったかのような不自由感。中二のような病気感。

 「単なる語彙不足だよ、それ。成長してないってこと。感受性のかけらもないのね」

うるせえくそくらえだこんちきしょうめ。「テーマ」というものは概してそういうものだ。具体を排す。抽象。ゆえに軽薄。だからこそ、そこから広がっていくことができる、と言うことだってできる。

BGMが大きな(抽象的な)「テーマ」を与え、その「テーマ」の上に具体性の核となる各カットが配置されている。見るものはそこに何らかの「意味」を見出す。いや、わからない。少なくとも自分の場合はそうだった、というか、そうなのではないかと考えている。

関連のないカットを並べたものを音楽で強引にまとめた、とも言えるかもしれない。乱暴だけど。

だから自分もそうやって作った。曲を選ぶ。曲の並びを決める。曲のテーマに合わせてカットを選び、並べる。おしまい。

1曲目は『桐島、部活やめるってよ』の主題歌『陽はまた昇る』(高橋優)、2曲目は『人生はビギナーズ』の挿入歌、3曲目は『宇宙人ポール』の "All Over The World" (ELO)。それぞれの曲にどんな「テーマ」を考えていたのかはそれこそ恥ずかしくて言えない。たぶん見ればわかるんだろうけど。

曲の上にカットを並べるだけのものを作るのに結局3ヶ月かかった。昨年末のマイベスト10発表時までに完成させるはずだった。もちろん3ヶ月の中で作業に当てた時間はほんの少しだけれど。難しかった。結果、できたものにあまり満足していない。でもとりあえず形になったことはなったので一区切りのつもりでアップした(一区切り、とか言いながら「もういいや」という気もしてる)。


たった5分のこんなちゃちなマッシュアップを作るのにも頭を悩ませるのにましてや映画の編集なんて……。

去年観たウディ・アレンのドキュメンタリーで一番あちら側が面白そうだったのは編集の作業だ。撮影した膨大なカットの切り貼り。楽しそう。でも胃に穴あいて頭爆発しそう。でも楽しそう。

「まさかだけど、君はあんなんで『編集』をした気になっているわけ?」

まさか。そんなこと思ってはいないよ。でも自分の好きなものとどこかでつながっているような気はしているよ、ほんの少しだけ。ね、前田君。

「こないだ酒飲みながら自分で切り貼りした映像見て一人キャッキャ言ってたけどアレは何?」

あ、あれは、ええとその……なんといいますか、

「ナルなのね」

ま、まさか。そんなことは、ない、です。ジョーーイ! はい、次は馬の話をします。2012年新作映画マイベスト10シリーズです。